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人形が生きている
今日はちょっと硬めの内容です。

飯田に美術館が出来たとき「なぜ飯田なんだろう?」と、思ったか方も多かったんじゃないでしょうか?
なんせ、信州の片田舎、東京からは4時間以上かかります^^;
私自身も、初めてこの話を聞いたとき、嬉しかったけれど、正直驚きました!!

その後、先生のお話や、自分の郷土の事を考えると納得できるものもあり
改めて、飯田という街の特色に気づかされました。

今日は、先日の展示案内で先生ご自身が語られた「なぜ飯田なのか?」を皆さんに
お伝えできればと思います。ちょっと、長文になります。
読んでやってもいいかな~、と思われた方は下の「続き」をクリックしてください。



皆さんよくね「なぜここに人形がいるの?」 「飯田の生まれですか?」って聞かれるんですけど、
僕は飯田とは、ほとんど何の関係もありません。

飯田との関係というのは15年ぐらい前ですか、日中合作の舞台の三国志っていうのを
飯田で上演したんですね。
その時初めて、人形の美術のスタッフとしてこちらに来て、人形劇フェスタの中で、
その公演として来たわけなんですよ。
その時は「ああ、人形劇を街のあっちこっちでやっている街なんだな」ということで帰ったんですね。

それから後で、今度は人形アニメーションの上映をやったのですが、
その時にアンケートをとたんですよ。
そうしたら「人形が生きている」というアンケートがとても多かったんですよ。
そういうのは、今まで上映していて一度もそんなことは無かったので、
ここはちょっと特別な街だなという気がしたんですね。

つまり人形が生きているって言われることは、僕にとっては最上級の褒め言葉だったわですよ。
それで、ここにはちょっと違う人達がいるんじゃないかな~って気がしたんですね。

そしたら「人形が生きてる」という言葉は、実は江戸時代から大変な歴史があるんですよ。

淡路から飯田に来た、吉田重三郎というプロの人形遣いの人が、飯田の若い人達の前で
人形をまわせて見て、その時に飯田の人達が発した言葉が「人形が生きている」
そういう言葉だったわけですね。
そこで重三郎は住み着いて、みんなに人形の芝居を教えて、そしてそこで死ぬんですね。
そしてお寺に、重三郎をはじめとして、後から来た人形遣いのお墓もそろってある。

「人形が生きている」という言葉には、ずっと歴史が続いている。
そういう場所に、人形が展示されれば、一番人形にとって幸せな所んじゃないかな~と思いまして、
ここに寄贈を決めました。


この言葉は、先日の展示説明会で先生が語られた部分を、一部抜粋して書かせていただいたものです。
この話しで、少しでも、先生と飯田の関係が皆さんに伝われば幸いです♪

伊那谷には、多くの人形座がうまれ、地域の誇りとして根付いてきました。
伊那谷の人形遣いや、人形劇フェスタの事は、また次の機会にゆっくり紹介させていただきます(^^)

ちょっと硬めの内容にお付き合いいただいて、ありがとうございました。
変なところがあったら、直すんで教えてください。
by ikpm | 2007-05-10 23:32 | 人形美術館
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